インドを歩いていると、どこへ行こうと施しを乞う人々に出会う。「持つ物は持たざる者に施すべきだ」「いや、その考えが怠け者を生み出し物乞いを増やす。相手のためにならない」など、バクシーシ(喜捨・施し)には賛否両論あり、恵のように優柔不断な人間にはどちらとも決められない。
おいおい、いくら腹減ってるからって。。。
なので、予め決めておくことはせず、その時の直感というか、反射的にどちらに(自然に)なるかで決めている? が、この方法、後で結構後悔すると言うか気にかかることも多い。恵の場合、この方法だと最も施しをすべきだと思える場面で、なぜかしないことが多いからだ。
例えば、恵が家族と友人を連れて4度目のインドに行った時の話。友人がシタールを買いに行くのに付き合った帰りのタクシーの中。彼が大きなシタールを抱えているため後部座席を一人で占領し、恵は助手席に座っていたのだが、信号待ちの時、対向車線側の歩道にいた一人の少年が道を渡って近付いてきた。
なぜか彼はずぶ濡れで、上半身は裸、お腹の前でヤシの実を片手で1つ持っている。
「ああ、来た。今ココナッツなんかいらんのに……」
断るのが苦手な恵は早く信号が変わることを期待したが、叶わず、彼がタクシーに到達する方が先だった。
少年が片方の手を窓に付ける。濡れているため汚れで手形が付く。その後、彼はヤシの実を指差しながら何かを言っていたが、恵は窓も開けずに首を振った。
「こんな汚れてる子から、さすがに飲食物は買えんやろ」
と思い、「ごめんね」を目で訴えながら彼を見ていると、
「ん?」
何か違和感がある。
彼がヤシの実を持つ手を動かすたびに、それが少し変形するのだ。それに気付いて、恵が良く見てみると、
「うっ……」
それはヤシの実ではなく、彼の身体の一部だった。恵は医学的なことはよく分からないが、何らかの腫瘍なのだろうか、ちょうどヤシの実ぐらいの大きさの玉状のものが腹部からせり出していた。彼の茶色い肌の色から、恵は熟した色のココナッツと見間違えたのだ。
そのことに気付いた直後、信号が変わり、タクシーは発進した。そのため、バクシーシすることはできなかった。
また別の旅行時、朝早く禁煙施設から出てバスターミナルの端の植え込みのふちに座り、タバコを吸っていた時のこと。俯いてニコチンに酔っているところへ声を掛けてくる者がいたので顔を上げると、すぐ目の前に顔半分が崩れ、横に伸びている人が四つん這いになっていた。この時は財布を宿に置いてきてタバコ以外持っていなかったことと、怖くて反射的にその場を去ってしまってバクシーシできなかった。
日本に帰った後調べると、その病気は伝染性のものではないらしいのだが、その時はこの病気のことを全く知らず、ライ病か何かだと思っていた。が、恵の好きな映画「ブラザーサン・シスタームーン」を思い出し、「こんなことでひるんでたらアカン」と思い直し、用事を済ませた後、今度は財布を持って同じ場所へ行ったのだが、そこにはもう彼の姿はなかった。
また別の旅行時、確か5回目に独りで行って、向こうで出会った女性3人と行動を共にしている時のこと。恵は別に行きたくはなかったのだが、彼女たちにムンバイのインド門に無理やりボディーガード兼通訳として連れて行かれた。ちなみにこの3人は他人同士なのだが、ちょうど親子3代ぐらいの年齢差だった。
インド門前の人ごみの中にいた時、一人のおばさんが恵のパジャマクルタ(インド服)の肘の辺りを掴んだ。「なんだ?」と思っていると、やはりバクシーシをねだる。恵は人ごみではまず喜捨することはない。財布を出すのが怖いのだ。それで子供がたくさん寄ってきた時などは日本から持ってきたアメやチョコレートをあげることにしている。そのために用意して持っていくのだ。が、おばさんにアメというのも何なので断った。だが、なぜかどこまでもついてくる。いくらでも観光客はいるのだし他を当たれば良いのに、いつまで経っても袖を離さない。
同行者の女性たちがそれを見て笑っている。彼女たちは喜捨はしないと決めている人たちだった。仕方なしに恵は無視してインド門を見ていた。おばさんに袖を掴まれたまま。。。
しばらくすると、またあの「シャー、シャー」が聞こえてきた。自分に対してでないことを祈り、恐る恐る振り返ると、また非常に低い位置で恵に対して微笑む顔があった。もうこの頃には、相手は高い位置より低い位置にいることの方が多いことを恵は知っていた。
「……」
だが、今度は声も出なかった。インド旅行過去最大の驚きだった。声の主、その30前後の男性には両手足が根元からなかった。板にコマを付けた台車のようなものに横になっていた。台車の顔側の端にはロープが付いているところを見ると、誰かにここまで連れられてきたようだった。
横向きで、少し顔を持ち上げながら、彼は恵に微笑んでいた。
「ええっと、、、あげるべきか、どうか。。。けど、どこに渡したらええのか……口なのか?」
恵はプチパニックで意味の分からないことを考えていた。だが、実際、手先のない人は肘の部分を、両手のない人は足を使ったりするが、彼の場合四肢全てが根元から全くないのだ。
その時、彼女たちが移動すると言うので、恵は考えがまとまらないうちに、それに続いてその場を去ってしまった。
後で考えると、渡す場所などは相手が示すはずだ。慣れているのだろうから。恐らくは板と頭や身体などの間に挟めば良かったのだろう。
日本に帰って調べると、そういう人々のことを通称・ダルマと呼ぶんだそうだが、噂では、買ってきた子供や誘拐してきた子供の手足を斬って物乞いをさせる悪党がいるそうだ。そうすると逃げられないし、同時に同情も買いやすくなるからだという。
本当のことなら、あまりにも惨い所業だが、恵はその人一人しか見ていないし実際のことなのかどうかは分からない。ただ、顔や胴体は全くの無傷で、両手足だけ根元から全くないことを考えると、病気や事故によるものとは思い辛いのも確かである。
とにかく、これらが恵が深く印象に残っているバクシーシできなかった時の出来事なのだが、なぜ、これらの時にできなくて、どうでも良いような時に喜捨できたりしたのだろう。
「単純におまえがダメ人間だからだろ」という声が聞こえた。答えは「確かに」だ。が、それだけだろうか。
インドでは様々な考え方がある。
その一つは、「今、苦しんでいるのは前世で犯した罪によるもの」というものだ。例えば、先の男性の手足を斬った悪党は前世でその男性に手足を斬られた復讐を今生で遂げたという考え方。直接同じ相手ではなくても、やった側とやられた側が引き合って、今回は逆の立場になるのだと言う。ただ、これだと永遠にやる側やられる側を生まれ変わる度に交代し続けることとなり進展がない。そこで自分の今の状態を受け入れ、恨みを抱かないようになると、次はその輪から解放され、また違った人生を歩めるようになる、ということらしい。
ただ、この辺のことは恵には分らないので、なぜ、喜捨できなかったかだけを考えてみた。施しに関してはインドに行く度に、また帰って来てからも何度も何度も考えた。
それで出した結論は、やはり「その場の流れで」というものだった。なぜなら、その結果どうなるかが恵には分らないからだ。
恵が施さなかったために、その人や家族が飢えて死んでしまうかもしれないし、また逆に、施しをしたために物乞い予備軍が味を占め、完全なる物乞いになってしまうかもしれない。その辺の本当の所は、その場の見た目では判断はつかない。
手足のない男性の場合も、彼自身のことで言えば、施すべきだったのかもしれないが、実際に金を得る悪党の方はそれによりもっと悪事を重ねる可能性が高くなる。
ほとんどの場合は、恵一人がどちらを選択しようと大した違いは生まないことだろう。だが、その一回で相手の人生が変わる可能性も否定できないし、何より「一人が集まって大勢」なので、一人一人の責任はやはり大きい。
だから、恵はやっぱり決められないのだ、自分では。その辺は天に任せて「得るべき人は得るように」と祈っているしかない。そして、やはり「その場の流れ」で行くしかない。
だが、それでも、いつまで経っても気にかかってしまう事柄ではある。