意識は年を取らない

初めはタイトルを「心は年を取らない」にしようと思っていた。が、「心ってなんだ?」となった。我々は「心」というものが当たり前のものとしてある、という前提で物事を語るが、その実体は何なんだ、と。

 

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そこで「心」を求めていろいろ考えてみた。まずは「思考」。だが、これは浮かんでは消えていくもので、固定化されたものではない。変化するものを一つの実体として捉えることはできないので却下。

次に記憶。これはそれまでに溜まったものの総計ということなら思考よりは安定している。が、これも増減するし、まず「思考」によって呼び起こされなければ出てこない代物だ。それにもし記憶喪失になったら心はなくなるのか? ということでこれも却下。

最後に思いついたのが「私」という思いだ。これなら思考のように変化もしないし記憶のように増減もしない。また、たとえ記憶喪失になっても「私」という思いはある。

 

今日はなんか難しい話やなぁ、父ちゃん。。。

 

だが、ここまでくると、もうこれを「心」と呼べるのか、という問題にぶち当たった。なぜなら、純粋な「私」が求められるからだ。

もし思考と私という思いが接触すると、それはもう思考になってしまうし、記憶と混ざればやはり記憶と化す。従って、何とも接触していない純粋な「私」という思いである必要がある。

それならもうそれは「心」ではなく「意識」と呼び変えるべきではないか。そう思った。誰もが「心」と聞くとその人の考えや記憶などのバックボーンを持ったものを想像するだろうが、それだと上記の理由から「固定化」できないのだ。

だが「意識」ならその人の背景を考える必要はなく、思考や記憶と組み合わせなくても語意を理解できるだろう。



ここまできて気付くのは、つまり、「意識」にはパーソナリティー(個人性)がないということだ。なぜなら、パーソナリティーは必ず背景を必要とするから。

けど、それやと、「私」って「個人」ではないのか?



何かややこしい話になったが、結局「心」というものの実体は掴めなかった。恐らく我々は「思考・記憶・感情」などの常に変化するものの総称として「心」と名付けているのだと推測する。よって、タイトルは「心は年を取らない」にはできず、「意識は年を取らない」とした。

 

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よく、我々は「ええ年こいて(いい年をして)」などと言う。恵自身、脳みそがガキなのでいまだによく言われる。だが、その時いつも「年ってなんや?」と思うのだ。自分が年を取っていっているという感覚があまりないからだ。

当然、肉体的衰えは感じているし、考え方も若い頃とは変わってきている。鏡を見れば頭は禿げだしており、シワも増えてはいる。だが、精神的にその根本のところでは、物心ついた頃から現在まで何も変わっていないものを感じるのだ。

恵も(肉体的に)若い頃は、外見で「大人」とか「老人」とかに分類していた。「別のもの」だから同じ事柄にも違った反応をするだろう、と思っていた。だが、自分がその大人や中年になって感じるのは少年の頃と何ら変わらぬ「意識」だったのだ。

当然、これは「自分」というものを「肉体」だと思っているか「精神」だと思っているかで多少の個人差はあるのだろう。多くはその折衷だろうが、いずれにせよ、誰もが皆、恵と同じ感覚を持った経験があるのではないか、と思う。

 

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まとめると、外見に関係なく「自分」「私」「意識」は年を取らず、誰にとっても「不変」的なものだということ。それはこの考察で(恵には)明らかとなったが、代わりに今度は「では、私とは何だ?」「意識とはどんなものだ?」という疑問がわいてきてしまった。

皆さんはどうお考えですか?

 

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