結構、これが気になる人はいると思う。
恵もそうである。いや、そうであった。小学生の時など、それが知りたくて一度死んでみようかと思ったぐらいである。だが、死んでしまうと生き返れないので、いずれ分かることのために死ぬのはバカらしいと思い、実際に行動に移すまでには至らなかった。
アホ! 父ちゃん、その時死んでたら、
アタシは父ちゃんとも母ちゃんとも
出会われへんかったやんか!
だから、皆さんも死後が気になっても、死んでみようとはしないでね。必ず一度経験できることのために、死後の世界と同じく謎に包まれた「人生」を捨てるのはもったいないから。
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恵は過去に「宇宙の果て」や「意識は年を取らない」、「信じたい方を信じる(超常現象バトル)」で書いている通り、変なことばかりが気になる子供だった。いや、今もだから「人間である」とするべきか。そのせいか「幽霊を見続けて気がふれた友人達」や「護られているとしか思えない不思議な出来事」で書いたような変な経験も多い。
どちらかというと、多くの人が興味を持つようなこの世のことにあまり興味がない。いや、唯一、異性にだけは強い興味を持ち、そのためにいまだにいろいろ努力しているので、、、みんな、そんなもんか。
とにかく、元々地位や名誉に興味はなく、それほど物が欲しいとも思わず、動物と接していられれば幸せだったので、今はもう嫁とアン(引きこもり犬)と一緒にゆったり生きていきながら、この世では役に立たないような事柄について考えていられたら、と思っている。
で、死後の意識がどうなるのかについてだが、死んでみないと分からないというのが本当のところではあるが、なぜか恵は「絶対、意識は消えない」という想いがある。
初めてそう思ったのは、5・6歳の頃、父方の祖母の葬式の時のことである。
棺桶の中で眠っているような祖母を見て母達が泣いていることが、恵には不思議でしょうがなかった。
「おばあちゃん、寝てんのん?」
分からず、恵は傍にいた母に訊いた。
「違う。死んでしもたんやで」
母はそう答えながら泣き続けた。
「死んでしもたって?」
「もう、いてへんねん。帰ってけえへんねんで」
「ええ……」
ばあちゃん、ここにおるやん……
恵はいささか混乱していた。
死ぬってどういうことやろ……
つい数時間前までと打って変わって談笑している大人達の間で、恵はまだ理解できずに考え続けていた。
「恵ちゃん、何してんねや? 早よこっち来いな。あんたの好きなオハギあんで」
「うん……」
叔母に呼びかけられても生返事で行かず、代わりにもう一度母に尋ねた。
「死ぬって、どんなん?」
「ええ? う~ん、そうやな、夢見いひんで寝てることあるやろ?」
「うん」
「あんなんや」
「けど、起きるで」
「それの起きひんやつや」
「起きひんやつ……」
やはり恵には理解できなかった。
当時の恵にも肉体が滅びることは何となく理解できたが、意識が永遠に消え失せるということだけはどうしても納得がいかなかった。それは当然、知的な考察によるものではなく、直感的なものだった。
死んだらどうなるのか?
死んでみたことのない母にも正確に答えられるものではなかった。それはしょうがないとしても、肉体がまだそこにあるにもかかわらず「逝ってしまった」と嘆き、人が肉体ではなく意識や魂と呼ばれる目に見えぬ何かであることを半ば肯定していながら、その行方を知ろうとしないことが恵にはどうしても理解できなかった。
何より永遠に意識が失われるということが、なぜか絶対に間違いであるという確信のようなものが恵にはあった。
この想いがそれ以後も恵の脳裡から離れず、それで小学校に上がってからも何度か死んでみようかと考えたわけだが、前述の理由により、実行はしなかったのである。
これを読んでくれている方の多くが、恵と同じような考えや経験をお持ちなのではと推測する。
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直観的に「死後も意識は不滅である」とは思っていても、その裏付けがほしくて恵は今までに様々な方面の書物を読んできた。だが、当たり前かもしれないが、やはり決定的なものは存在しなかった。誰1人死んでみた人間がいないからだ。
生まれ変わりについては「動物とAGA、そして輪廻転生」で書いた通り、「ある」と思っている。そして、そこで書いたような「前世の記憶を持つ人々」が存在することも知っているし、その人たちが言うことも信じている。
だから、この人たちが恵の思っていることの証明と言えなくはない。生まれ変わるためには、その生まれ変わるための、生まれ変わったと言うための基盤が必要である。が、肉体は既に滅びているので、生まれ変わったのは「精神」の方だと言えるだろう。
ただ、ここで少し問題になることがある。その生まれ変わった精神とは何かということである。
「意識は年を取らない」で書いた通り、「心」というものは実に曖昧なものである。これが心だと言えるような実態は存在しない。あるのは刺激に対する感情的反応とその傾向、それと記憶を合わせて「心」と呼んでいると思うが、ほとんどの人が生まれ変わった時に「記憶を失っている」のである。
従って、「精神的傾向」が生まれ変わっているということになると思う。それが本当のところではないかとは思うのだが、精神的なものすべての基盤になっているのは「私という想い」、または「意識」である。
それなしには何も存在できない。「私がいない世界」や「意識がない時の出来事」などは聞き伝えや想像上のものでしかない。つまり、これがあってはじめて他のものも存在できるので、何かがあるのなら、そこには必ず「意識」は存在しているはずなのだ。
ちょっと分かり辛いかもしれない。が、こういえば分かるかも。
「意識の外の出来事」
これ、存在しますか? 意識の外って、どこ?
で、その意識も曲者なのである。詳しいことは「意識は年を取らない」を読んで頂きたいと思うが、記憶や考えと離れた「純粋な意識」は個人性を失ってしまうからである。
そうなると、「私の意識が死後も続く」とか「私が生まれ変わった」と、果たして言うことができるのだろうか? 死後も続く、生まれ変わる本体である意識に個人性がないのだとしたら?
なんか、またややこしい話になってしまったが、恵の推測をまとめるとこうなる。
死後も意識は続く。だが、死後すぐか生まれ変わる時かは分からないが(恐らく後者)、個人性は失われる。そして、前世までの精神的傾向だけが転生し、そこに宿っている意識にまた新たな個人性が生まれる。そして、記憶にはないが、前世までの精神的傾向に促されて好悪が生まれ、言動がそれによって左右される。
そんな感じなのではないかと思っている。
そして、「個人性のない意識」については、「宇宙の果て」に書いた「現実と夢・同一説」でしか説明できないのではないか、と思う。
けど、、、こんな一円にもならないことばかり考えている中年って、恵以外にそんなにはいないのだろうなあ。。。
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幽霊を見続けて気がふれた友人達(興味を持つと見えるようになってしまう?)
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