あいみょんの歌にノスタルジーを感じる

アタシもあいみょんは浜省の次に好き。寝やすいから。。。

 

恵は中年だが、あいみょんの歌にノスタルジーを感じる同年代の方は多いと思う。それは曲調がそうだからということは勿論だが、あいみょん自身が我々世代の曲を好きだからと言うのが大きいように感じる。

この2つ、同じようで全然違うと思う。

ただ、何の思い入れもなく「70’sを80’sを使おう」という感じで作った場合と、その年代の音楽が好きでよく聴いていたために、そのミュージシャンのベースとなったものでは雲泥の差だと思うのだ。

実際、恵は「マリーゴールド」を初めて聴いた時、里帰りしていた娘に「ん? 何かこの曲、俺好きやなあ。。。懐かしさを感じるというか、浜省に似てる? ん? 吉田拓郎っぽい? タイポップに近い?」と言った。一番似ているスピッツのことは、その時すぐには思い出さなかったのだが。。。

そこですぐ娘がネット検索して分かったのだが、あいみょんは父親の影響で吉田拓郎や浜田省吾を聴いて育ったようだ。スピッツに至っては、よく歌っていたらしい。そらそうやわな。。。

 

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また、近日中に書こうと思っているが、昨日、スペシャのCMで初めてclimbgrowの歌を聴いた。最近には珍しく骨っぽいロッカーが現れたなあ、という想いと共に、恵が好きでいまだにライブにまで行くThe Birthdayのチバがベースにあることはすぐに分かった。調べるとやはり「チバユウスケは聴いていた」とインタビューで答えていた。

そういう場合、つまり、聴いていた音楽が血となり肉となって自分の曲に現れている場合は「パクリ」とは感じない。わざわざ似通った曲を作った場合でさえ、「オマージュ」に感じる。これは「そういう奴らなら、そう思っておいてやる」的な意味ではない。本当にそう感じるということだ。あいみょんにせよclimbgrowにせよ、先に背景を知って聴いたわけではない。それでもそう感じたのだ。



これとは別に「これ、完全に〇〇のパクリやんけ」と思うこともよくある。そういうミュージシャンは、実際に「あの感じの曲調で行こう」的な作り方をしたのではないかと思うのだ。

恵は過去記事でも「音楽はオリジナリティー」ということをよく言う。ただ、この意味合いは本当は非常に難しいのだ。そのままの意味合い、つまり、「今まで聞いたことがないような曲」ということだと、あいみょんもclimbgrowもアウトだ。が、恵にはOKなのだ。

ジャズからブルースやR&Bが生まれ、そこからまたロカビリーやロックンロールが生まれるという風に、(ん? フォークやカントリーの位置はどこだっけ? まいっか。。。)音楽は前世代の曲調を踏まえて進化し続けている。だから、似ていることが悪いのではないし、似ていたらオリジナリティーを感じないということでもない。

「取って付け」だと何も感じないだけだ。さっき言ったように血肉になっていれば問題ない。後はそこに本人の「味」が出るかどうか。



この問題を論じると一番初めに思い出すのがユーミンである。日本音楽シーンの大御所で、いまだに数々のミュージシャンに影響を与え続けている人物だが、プロコルハルムの「青い影」を知っている恵には、「ひこうき雲」だけでなく、多くの彼女の曲のベースに「青い影」があることが分かる。というか、彼女の特徴ともいえるビブラートの少ない「棒歌い」まで、プロコルハルムを継承しているように感じる。

それとは逆に吉田拓郎は「ボブ・ディランを真似た」と言っているが、これに関してはほとんどそれを感じない。いや、ベースにはあるのは分かるが、、、彼は真似が下手だったのかねえ? ボブ・ディランも聴いていた恵にも全く別物で、完全に「吉田拓郎節」である。彼は恵には何を歌っても拓郎節になる「歩くオリジナリティー」なのだ。

 

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もう分かって頂けただろうか。似ていても良いし、何ならオクタミみたいにフレーズを使っても良い。そこに愛さえあれば。

「利用」しているのではなく、「リスペクト」している場合、良い感じに仕上がったりするのではないかと思う。利用には愛はなく、リスペクト=尊敬はそれ自体、一種の愛だから。

だから、たとえ「マリーゴールド」の曲調がスピッツのある曲とほぼ一緒でも、「生きていたんだよな」に竹原ピストルが出てきても、「君はロックを聴かない」に吉田拓郎が飛び出しても、「愛を伝えたいだとか」で突然ジャミロクワイが踊り出しても、歌い方と声が阿部真央にそっくりでも、そんなことは良いのだ。

なぜなら、恵はこれら彼女のベースのミュージシャン全員を好きだが、彼らには感じないものをあいみょんの歌に感じるからだ。

曲も声も歌い方も誰かに似ているのに、彼女にしか感じないものがある……

これをオリジナリティーと呼ばずに何をそう呼ぶのだろう?



たとえば、恵は竹原ピストルの歌を聴くと、その歌詞と歌の圧で感動するのだが、あいみょんの場合は違う。「マリーゴールド」や「彼女はロックを聴かない」を聴いていて、恵は不覚にもふっと泣きそうになったりするのだが、それは歌詞に反応しているわけではないのだ。これらの歌の歌詞自体には、恵が泣くような要素はない。

歌詞で泣いてしまうので人前では絶対聴けない曲がいくつかあるのだが、それはたとえばバンプの「ハルジオン」や「K」である。これらの曲がたまたまテレビで流れたりして近くに嫁や息子がいた場合、恵は何とか歌詞を聴かないようにと、意識を他へ飛ばしてやり過ごしている。

 

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あいみょんの場合、歌詞が関係ないと言っているのではない。ただ、、、、ここからは推測だが、あいみょんは曲を作っている時の心情がそのままベタに歌詞に表れるタイプではないように感じる。が、その曲を作った時の心情は当然覚えていて、歌っている時にはその心情を思い出しているのではないかと思う。

恵はそれに反応しているように感じているのだが、どうだろう?

そして、その心情に、年齢性別に関係なく誰もが反応しやすい普遍的な何かがある。そのためにノスタルジーを感じる。

恵はそう思っているのだが、同じように感じている方、いらっしゃいますか?



「君はロックを聴かない」がたまらん(あいみょん再び)

 

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